逆サザエさんシンドローム
昨晩酩酊状態でパソコンの前に向かったのだが、夜勤明けの疲労とサッポロビール黒ラベルに潰されてしまって、気がついたときには太陽が真上に昇っている時間だった。
8月最終週の日曜日の夜、お茶の間でサライが流れ始める頃、僕は友人を愛車のスズキKeiで自宅まで送り届けていた。
思えば6歳から15歳までの9年間、この日が一年で一番憂鬱な日だった。
夏の終わりの虚しさと、宿題が終わらない焦燥感に駆られていたあの頃。
家族旅行も帰り道は宿題のことばかり考えていた。
小中学生時代の夏の思い出の曲を聞く度にそんな苦々しい記憶が必ずついてくる。
僕はもう社会人となり終わらない膨大な宿題を前に絶望することもなくなった。
今になってようやく、あの頃、家族旅行の帰りの車のカーオーディオから流れていた曲たちを、ある種達観したような、勝ち誇ったような気分で聴くことができるようになった。
友人を家まで送り届けた後、僕は久々に車を運転した高揚感を持て余していた。
そしてふと、思い出の曲を車で流しているうちに、幼少期の思い出の場所を自分の運転で巡ってみようかと思った。
気の向くままに僕は愛車を北へ走らせた。
小学生くらいの頃、父親の運転で東京のホールまで演奏会に連れて行ってもらったことが何度かある。その度に国道246号線を通ることがあった。
首都高の高架下で渋滞にハマりながら綺羅びやかな街並みを眺めることが、幼少期のちょっとした旅の細やかな楽しみだった。
3~40分ほど車を走らせると246号線にたどり着いた。
幼少期の頃は隣町でも別世界に行ったような気分だったが、この歳になると当時と同じくらいの高揚感は湧かないものだ。
案外大したことなかったんだなと思いながら、多摩川を渡った。
翌日が平日であることもあり、都内に入ったというのに国道を走る自家用車の数は少なかった。
世田谷区は瀬田に差し掛かったとき、手元の携帯端末の待ち受けは22:00を指していた。
自分の運転で他県に行くことがなかったので、一応の達成感はあったのだが、なにか物足りなさも感じていた。
僕はわりと多趣味のほうであると自認しているが、そのなかで銭湯巡りがある。
海の街に住む友人にサウナに誘われたことが契機となり、自分の趣味となったものだ。
帰りの道すがらに気の利いた風呂屋はないかと、iPhoneの位置情報と現在時刻をもとに検索をかけたところ、車で20分のところに湯けむりの庄というスーパー銭湯がヒットした。距離も最適だと思い、車を南へ走らせた。
このときはまだ、何気なく調べた見知らぬスーパー銭湯が僕にとってこの世の極楽浄土になるとは思っても見なかった。
入浴の所感については改めて文章にまとめたいと思う。
小一時間ばかり源泉の黒湯とサウナを行き来した。
時計の針が12時を指す頃、湯上がりの火照った体に晩夏の夜気が優しくそよいだ。
実家ぐらしとレゾンデートル
僕は25歳なわけだが、いまだに実家で暮らしている。
郊外の庭付きの一軒家だ。
村上春樹の小説の主人公の実家みたいな、傍から見るとブルジョアジーな家だ。
おかげで僕は年収300万を下回る人間だが、太い実家のおかげで何不自由ない生活を送っている。
人間力を高めたり、ハングリー精神を醸成するためには一人暮らしをしたほうがいいのだろうが、一身上の都合で実家で暮らさざるを得ない状況下にいる。
ただ、生活のあらゆる場面で苦労することが全くないので特に不満もなくぬるま湯につかっている。
親の仕事の影響や今まで触れてきた思想の影響もあるかもしれないが、世界の問題や日本の社会課題について考える機会がある。
僕は小学生の頃から社会科系の科目が得意だった。
僕の小学校は年に一回文化祭みたいなもので学級発表をするという行事があった。
小学5年生のときにそこで僕は総理大臣についての発表をしていた。
選挙速報も僕にとっては24時間テレビ以上の一大イベントだった。
それくらい政治について興味があり、社会課題にも関心のある子どもだった。
僕は今の仕事についてはとても社会的意義があるものだとは思っているが、僕が社会に対して抱いている理想を実現するためには、影響範囲が狭く感じてしまう。
それは自身の職能からすれば釣り合わない理想だと思う。
また社会に対して自己の理想を実現しようとするのはある種傲慢なのかもしれない。
そして極めて独善的であるのかもしれない。
僕の理想は誰を幸せにするのだろうかと考えてしまう。
しかし理想を持たずして、何を糧に生きていけばよいのかと思ってしまう。
僕自身は個人に対しても、そして社会に対しても理想を掲げることで生きていることを実感するようになった。
人々は何を糧に働き、生きているのだろうか。
孤独と聖域
僕は神社の林が好きだ。
鎮守の森みたいな言い方のほうが格好はつくかもしれないが、僕の家の近くにある神社の林はそんな立派なものじゃない。
数年前に道沿いにある桜の木も切ってしまったし、0.5ヘクタールの敷地に2~30本程度しか生えていない。
これだけの情報ではあまりにも貧相な印象になるが、それぞれの木がおそらく樹齢100年以上の代物だろう。幹の太さが2m以上の巨木ばかりだ。
枝ぶりや茂った葉も見事なもので、参道は杉の葉の帳のようになっている。
木のほとんどが杉と桜だ。裏口の大ぶりの松が神社の威厳をより一層高めている。
片手で数えられる歳の頃から、よくこの神社で遊んでいた。
巨木たちはここで何百人、何千人の生き死にの歴史を眺めてきたのだろう。
世間では連日35度を超える猛暑が報じられているが、この神社の木陰はそれを全く感じさせない。社には猛暑も政治不信も物価高も戦争も関係ない。
俗世に対して一線を画している。
今世の地獄に耐えかねた人間に取っては浄土のようでさえある。
静かに流れゆく時間のなかで、孤独を楽しむのも悪くない。
誰とでも繋がれる現代は独りになることのほうが難しい。
ソーシャルメディアは心の孤独までは埋めてはくれない。
ただ、ある書が心の孤独は無理に埋めようとしなくてよいことを僕に教えてくれた。
心にある空白は余裕のなくなってしまった自分を整理するための場所なのだから。
苔むした石段に腰掛け、心の嵐が通り過ぎるまで深く息を吸い、静かに吐き出していく。
僕はそこで言葉にもならず、頭の中で靄がかった思念のようなものを、糸くずを集めるように掻き出しては繰っていく。
心の空白を利用して散らかったそれらを一旦置いて、言葉を紡いでは適切な場所へ送り出していく。
そうして日和見をしたならば、また地獄の荒野に繰り出してゆくのだ。
物質的豊かさへの渇望など
土日休みでボーナスあり、有給が取れて20代で年収300万乗る仕事にありつけることが勝利なのか。
金や待遇のことばかりを考えると拝金主義かのように感じることがあるが、上記はそれほど欲望にまみれた発想だろうか。
そのうえ、満員電車に揺られることなく仕事ができればどれほど喜ばしいだろう。
郊外の家から1時間以内の通勤時間であるとなお良い。
その程度の欲は容認されてもよいのではないだろうか。
ここまでは待遇の話をしてきたが、更に自分に合った仕事であれば、これほどの喜びはない。
私はようやくここまで来て、豊かさの本質を議論するテーブルにつくことができるのではないかと考えている。
私は恒産なくして恒心なしという孟子の言葉が好きだ。
私は人類に対しては、性善説を指示している。
しかし、人間は物質的に貧しくなると心まで貧しくなる。
心の錦も飢えには勝てない。
日本の戦後闇市で売買をせずに餓死する道を選んだのは一部の思想家だけだ。
幸いにして今の日本はそれほど餓死する可能性は高くない。
それは真綿で首を締めるような状態が続いているだけかもしれないが、中卒でも仕事はあるし、職を失っても生活保護等の社会保障もある。
沈みゆく船に乗っていることは間違いないが、世界を俯瞰で見れば、それほど日本は悪くない。
現在OECDの加盟国のなかで、日本の経済成長率が34カ国中33位のようだ。
この内容だけ見れば、悲観してしまうような内容だが、29位にはアメリカ、そして最下位である34位は、かのIT先進国エストニアだ。
ただ、沈みゆく船底の穴を塞ぐことも必要だろう。
自分たちがこの国で生きやすくするためのマイナーチェンジをしつつ、本当の豊かさを議論するテーブルを目指していきたい。
小さい頃買ってもらったおもちゃを捨てた
両手で数えられる歳のうちはずっと母にベッタリだった。
7歳くらいまで乳離れすらできていなかったと思う。
幼稚園も行ったり行かなかったりだった。
今思うと発育上多分に問題があったのだろう。
いつだったか、おままごとセットを買ってもらった。
買ってくれとせびったかどうかはあまり覚えていない。
10歳までは色々なものをねだっていたものだから、そのあたりは曖昧だ。
母親の家事に付きまとっていて興味が湧いたのか、幼稚園の遊具のせいだったか、
はたまた親が情操教育のために買い与えたものであったか、経緯も定かではない。
ただ当時、幼児の純粋な好奇心とそれに応える親の愛情があったことは確かだろう。
おそらく何度かは遊んだのであろう。
母親と遊んでいたのか、一人で遊んでいたのかもあまり覚えていない。
幼稚園の頃は一人で遊んでいることが多かった気がする。
5歳くらいまではぬいぐるみや知育玩具に囲まれていた。
児童向けの図鑑なんかも、その辺に転がっていた。
当時両親は何を思って息子にそれらを買い与えたのだろう。
まだ子どもを持ったことがない私には想像することも難しい。
「元気に育ってほしい」みたいな願いでもあったのだろうか。
おままごとセットはたいして遊びもせず、見向きもしなくなっていた。
子ども部屋の整理をしているときに埃を被った"それ"が目に止まった。
20年ばかり、たいしてモノを捨てず、片付けずといった有様なら、必然的にゴミ屋敷同然になってしまう。
そんな始末だったので、いっそ古いものは捨ててしまおうと思った。
それらを45リットルのポリ袋に入れた刹那、記憶のなかに生きる当時の情念のようなものが、およそ熱量を持って脳内を駆け巡った。
この情念はどこへ捨てれば良いのか。
どのように供養すれば良いものか。
記憶と残された親との時間に思いを馳せながら
事故に遭った話でも
昨日(5/30)の22:20頃、神奈川県某所でバイク事故に遭った。
僕が乗っていたバイクに相手の自動車が背後から衝突したというものだった。
僕のバイクは全長1950mm程度の125ccのMTのバイク、片や相手の車両はSUVだった。
信号が赤に変わり、僕が止まろうとしたときに背後の車が止まらずに衝突した。
バイクのリアフェンダーからフレームが拉げ、シートがカチ上がった。
幸い僕は、ものが詰まったリュックを背負っており、シートバッグもあったため、それが緩衝材となり、背中は守られた。怪我は右の手首と左足の脛の打撲で済んだ。
事後は近隣に住むバイク乗りの方が、僕の事故車の移動してくれ、追突した車の運転手が110番に通報し、僕の前で玉突きの被害を受けたスクーターの青年が、彼自身も擦り傷があるなか、僕を介抱してくれた。
事故に遭遇したことは不運なことではあったが、あらゆる幸運が重なり、僕は今こうして、このエントリーを書いている。
かつて僕はスリップダウンして打撲と擦り傷を負ったことがある。そのため、転倒の衝撃はあまりなかった。しかし、追突の衝撃や眼前に車のフロントグリルが迫る様は、否が応でも死を想起させた。
確かに今回、僕は軽傷で済んだ。しかし、僕のバイクが今乗っているものでなかったら、またリュックを背負っていなかったら。もしくは後ろに誰かが乗っていたとしたら。
そのとき僕は言いしれぬ恐怖を感じた。身体的な痛み以上のものが全身を走った。
幸い僕は生きているが、もし仮に誰かが命を失っていたら、趣味どころの話ではない。
身体の痛み以上に僕はそれを忘れてはならないし、伝え広め、そして残していく必要性を痛感した。
ただ、僕はこの一件で、バイクの怖さや道路の危険性は確認できたが、バイクそのものは嫌いにはならなかった。危険と隣合わせではあるが、人生を豊かにする乗り物でもあると僕は信じている。
この乗り物で悲しむ人が少しでも減り、そして誰も悲しませないようにするためにも、正しい理解が必要だと考えている。