孤独と聖域

僕は神社の林が好きだ。


鎮守の森みたいな言い方のほうが格好はつくかもしれないが、僕の家の近くにある神社の林はそんな立派なものじゃない。
数年前に道沿いにある桜の木も切ってしまったし、0.5ヘクタールの敷地に2~30本程度しか生えていない。


これだけの情報ではあまりにも貧相な印象になるが、それぞれの木がおそらく樹齢100年以上の代物だろう。幹の太さが2m以上の巨木ばかりだ。
枝ぶりや茂った葉も見事なもので、参道は杉の葉の帳のようになっている。
木のほとんどが杉と桜だ。裏口の大ぶりの松が神社の威厳をより一層高めている。


片手で数えられる歳の頃から、よくこの神社で遊んでいた。
巨木たちはここで何百人、何千人の生き死にの歴史を眺めてきたのだろう。

世間では連日35度を超える猛暑が報じられているが、この神社の木陰はそれを全く感じさせない。社には猛暑も政治不信も物価高も戦争も関係ない。

俗世に対して一線を画している。
今世の地獄に耐えかねた人間に取っては浄土のようでさえある。

静かに流れゆく時間のなかで、孤独を楽しむのも悪くない。
誰とでも繋がれる現代は独りになることのほうが難しい。
ソーシャルメディアは心の孤独までは埋めてはくれない。

ただ、ある書が心の孤独は無理に埋めようとしなくてよいことを僕に教えてくれた。
心にある空白は余裕のなくなってしまった自分を整理するための場所なのだから。

苔むした石段に腰掛け、心の嵐が通り過ぎるまで深く息を吸い、静かに吐き出していく。
僕はそこで言葉にもならず、頭の中で靄がかった思念のようなものを、糸くずを集めるように掻き出しては繰っていく。
心の空白を利用して散らかったそれらを一旦置いて、言葉を紡いでは適切な場所へ送り出していく。

そうして日和見をしたならば、また地獄の荒野に繰り出してゆくのだ。